リスペクトを持って”人とまち”に恩返しを。「雑賀崎」を100年後も守るために【こんな生き方もあったのかvol.5】

2023 / 05 / 11

リスペクトを持って”人とまち”に恩返しを。「雑賀崎」を100年後も守るために【こんな生き方もあったのかvol.5】

構成/冨田愛純

撮影/冨田愛純

和歌⼭市で⾃分らしく活動している⼈を通して、全国に和歌⼭市の魅⼒をお届けしたい。
そんな想いから⽴ち上がったインタビュー企画「こんな⽣き⽅もあったのか」では、その
⼈が辿ってきた道のり、これまでの⼈⽣を振り返って思うこと、さらには今後実現していきたいことに迫ります。今回は、2020年に和歌山市の漁師町”雑賀崎”に移住し、2023年3月「うみまち食堂うらら」をオープンした池田美紀さんにお話をお伺いました。2度の海外移住を経験され自らを「根なし草だった」と語る池田さんが、雑賀崎に根を張ることになったその想いとは。

うみまち食堂うらら

オーナー

池田美紀

和歌山市出身。高校を卒業後、カリフォルニア州・サンフランシスコに6年間在住。2019年にノルウェーに移住し、日本食料理店にて修行。結婚後は雑賀崎に移住し、国内外問わず雑賀崎の魅力を発信する為、日々奮闘中。2023年3月雑賀崎に「うみまち食堂うらら」をオープン。魚介類と猫をこよなく愛する。


食堂を始めたきっかけは、1人のおばあちゃんとの出会い


雑賀崎に移住して初めてできた友達”みどりちゃん”との出会いが、「うみまち食堂うらら」を始めようと思ったきっかけなんです。移住して間もない雨の日に、自宅の庭で雨を感じていたら通りすがりのおばあちゃんが『傘貸してあげるから、うちにおいで』って呼んでくれて。そのおばあちゃんが” みどりちゃん”なんです。私は「ここ自宅の庭やから大丈夫」って言ったんですけど、『いいから、いいから』ってみどりちゃんの家に連れて行ってくれたんですよ。 


その日から友達になって。ある日みどりちゃんの家に遊びに行ったら、晩ご飯食べながら『1人やからこれくらいがちょうどいいんよ』って、すっごく小さい缶ビールを飲んでたんです。それを聞いたときに、1人だと小さい缶ビールでも何人かで一緒にご飯食べるとなったら、みどりちゃんはジョッキで生ビールを飲むんじゃないかなって思ったんです。 


缶ビールの小ささを説明してくれる「うみまち食堂うらら」オーナーの池田さん


そこからおばあちゃんの友達も増えて、雑賀崎にはみどりちゃんだけじゃなくて、旦那さんを亡くされて1人で住んでいる人や買い物難民の人が多いことに気づいて。日替わりでいろんなメニューが食べられるのはもちろん、さみしくなったときや一人でいたくないときに、ふらっと寄れば誰かいる「まちの台所」のような場所をつくりたいと思いこの食堂を始めました。 


取材前に食事していた時も、近所のおばあちゃんたちがふら〜っと来られていました


世界中どこに行っても自分は自分。”根なし草精神”でやりたいと思う道へ


昔から国語が好きで、高校卒業後は日本の文学を勉強できる大学に行こうかなって思っていたんです。ただ、日本では「新卒が大事」というイメージが強くて、大学卒業後すぐに就職してしまったら長年海外で暮らす経験は一生できないかもしれないと思って、高校卒業後サンフランシスコに留学しました。 


当時英語も話せなかったんですけど、流行っていたDSで英語勉強アプリをちょっとだけやって、アメリカに挑みました。もともと根なし草の精神なんで、海外への抵抗はまったくなかったです。地元でも留学先でも、学校で出会ってみんなと仲良くなるのは同じですし、読書が好きな人もパーティーで騒ぐのが好きな人も、結局は世界中どこに行っても人は一緒かなと思っています。 


当初は1年間の予定だったんですけど、語学学校が楽しかったのと英語以外の勉強もしたいなと思って、現地の大学に編入して卒業後仕事をしているうちに、気づけば6年が経っていました。地元の子が一流企業に入ったりすると、一瞬だけ「自分はこのままで大丈夫かな」と思うときもあったんですけど、たぶんそれはお互いさまなのかなと。たまに自分と違う人生を歩んでみたいと思うのが人というもので、そう考えると結局はやりたいこと、好きなことをやるのが1番幸せなんじゃないかなと思います。 



食堂オープンは夢じゃない。「雑賀崎を守る」という目標までの一通過点


ビザの関係もあって一度日本に帰国したあと、日本食ビジネスを立ち上げた幼馴染を手伝う形でノルウェーに1年間住んで、結婚を機に雑賀崎へ移住したんです。そのときには旦那の中で「漁師をやりたい」という気持ちが固まっていたので、結婚するということは、彼の故郷”雑賀崎”で漁師の妻になるというのは決まっている感じでした。雑賀崎弁があるんですけど、移住当初は語尾がイエスかノーかたまに分からなくなるくらいで、本当に人が良いので不安はまったくなかったですね。 


結局は、人なんですよね。みどりちゃんやお隣さんのきよちゃん、いっちゃんとかみんながいるからこの街があって。みんなが雑賀崎を守ってきてくれたんだって気づいたときに、今度は私たちがリスペクトを持って恩返ししたくなったんです。街って、本当に人が成しているものだなと。 



食堂とは別に旦那と一緒に雑賀崎で宿の事業もやっているんですけど、それは飲食業と宿泊業をやりたいからやっているわけじゃないんですよ。私たちの中には、「海や雑賀崎を100年後も守りたい」という大きな目標があって、食堂も宿もあくまでその目標までの通過点でしかないんです。外から来てくれた人たちが雑賀崎のお魚を食べられる場所がないとかおばあちゃんたちの孤食問題とか、そういう今すぐにでも始めないといけない問題を解決するために、食堂も始めていて。だから「食堂をするのが夢だった」「宿をするのが夢だった」じゃなくて、ただ目標までの地点がそこなだけなので、仕事とは思っていないんです。 



次世代がいろんな世界を見たあとに、”戻りたいと思える場所”であり続けたい


雑賀崎の人たちに食堂として使ってほしいのはもちろん、和歌山のお魚ってすごい美味しいので、地元以外の人たちに魚食を身近に感じてもらえるワークショップもやってきたいなと思っています。家族で浜に出て生き物を観察したり魚を捌いてみたりして、「魚介類ってこんなのがあるんだ」「知らない食べ方でおもしろいやん」って思ってもらえる場所にもしていきたいです。 


あと、アーティスト・イン・レジデンスやシェフ・イン・レジデンスというシステムがあって、海外や県外のシェフやアーティストに雑賀崎に滞在してもらって、地元の人と交流できたらおもしろいなと思っています。私たちがやっている宿もですけど空き家も多いので泊まれる場所はいくらでもありますし。雑賀崎から出たことないようなおばあちゃんや子どもたちが、ノルウェー人シェフの料理を食べるのも、コロンビア人の陶芸家と一緒に陶芸するのもおもしろいじゃないですか。そういう場所にもなるように、今いろいろと進めているので、楽しくなってくると思います。 


1番大事なのって、どんどん次の世代に伝えて育てていくことだと思うんですね。だから25歳でも15歳でも、10歳でも1歳でも私たちより下の世代がいろんなチャンスをもって、いろんな世界を見てほしいんです。それで、いろんな世界を見た後に「日本って、和歌山市って、雑賀崎って最高やったんや」って帰ってきてくれる場所にしたいんです。次どこに住もうかばかり考えていた私も、今こうして雑賀崎に根が張ったんだと思います。だからこそ、そういう場所であり続ける努力をしたいし、チャンスを与え続けられるようにやっていきたいですね。それがビジョンだし、和歌山市の大人がみんな、そうであったら最高だと思います。 



和歌山市移住定住支援サイトはこちら☟
http://www.city.wakayama.wakayama.jp/ijuteiju/index.html

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